The role of the work of the day
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最近、とあるプロジェクトで、友人と詩を交換し合いました。
その行為はとても不思議な感覚で、触手のようなもので無意識領域の交換をしているかのようでした。
「未来の人みたいなことをしているね」夫は笑いながら言いました。
詩が生まれるのは、自分の内側の奥です。その繊細な言葉たちを交換する行為は、まぎれもなく、魂の交流でした。
会話よりも、奥深く
考えるを超えた先の、感じるもの
誰かにわかってもらおうと
書いたものではない。
自分の一番奥に潜ったときに
暗い底で輝いていた言葉たち。
もしくは、
意識が肉体を超えて浮上したときに現れる
ヒカリの言葉かもしれません。
母親が娘の考えを理解できないといったよくあるケースにおいても、ある母親が、娘の作品を見てから以降は、一切口うるさく言わなくなったということです。
アートは、その人よりもその人である。
詩もまた、その人よりもその人である。
分かり合えなかった言語的コミニケーションを超えていけるもの。
昔の私は現代アートが苦手でした。あのわかりにくい感じ
「わかるもんならわかってみろよ」とでも言うような、強気に思える大胆で意味不明な造形や絵。しかしようやく、物を視る脳の機能が立体になっていき、表面的ではない部分まで感じ取れるようになった気がしてきて思うのは、わたしたちはやはり、感じる能力が退化してきているということ。
タイトルに「アートは人を救うのか」と付けたのは、アートや表現に関する分野が、人にとってとても必要なものであると、ようやく理解できるようになってきたからです。
・心に問題を抱えている人が描く絵に、闇の原因が見出せることもある。
・コミュニケーションが苦手な人には、詩の才能があるかもしれない。
・表現を苦手としている人が誰かのアートを見たことで魂が目覚めることもあるだろう。
好きに絵を描かせてみたらいい
好きに詩を描かせてみたらいい
好きに物作りをさせてみたらいい
好きな服を着てみたらいい
ずっと閉ざしていた何かが浮かび上がる
哲学、思想、知性、感情
それらを多くの人が見失ってしまったことで、アートは、ただカッコよさげで、オシャレぽくて、でもたいして役には立たないものだという認識だけが置き去りとなって放置されたかのよう。
スキルを教える教育への限界を感じます。今から時代は進化と同時に、逆戻りしていく。
それは同時に起こり得ます。与えられたことだけをやるのでは、自分で生きる力は育ちにくいのです。
毎日の1日1日がどんなに貴重であるかと、授業で教えてあげられること。
自分で考えて、一番好きなことを見つけて、そうして集中して学ぶことで、世界の誰かの役に立つという世界であるということ。
それを支えたり教えたりするのが、大人たちの役割なのではないでしょうか。
Blog by Mami Grace Osada
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