鏡、我(が)を取れば、神(かみ)となる_夢からはじまる物語3

The role of the work of the day

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靖国神社での昇殿参拝をさせて頂きました。本殿には、縦1m以上あるかなと思われるとても大きな鏡がありました。


鏡「かがみ」の真ん中の「が」という文字は

人の「我」を意味していて、

我(が)を取れば、「神(かみ)」となる。


聞いたことのある話です。

実際、本殿の鏡に映る自分を見ると、自分の中にある「我」を見るような気分がしました。

鏡の周りの装飾が凄かったですし、とても特別な鏡なのでしょう。


参拝中、ご高齢の女性がしきりに「足が痛い、足が痛い」と口にされていて、旦那様は、正座せずに足を伸ばすようにと、大事にしておられる様子でした。

私は、どうか痛みが和らぎますようにと祈り、その参拝を終えました。本殿を出て神酒をいただき、お札などが売られている売店に行ってみることにしたのですが、そこで10巻にわたる本が並んでいることに目が止まりました。

それらは、特攻隊の遺書が綴られているもので、誰か一人のたった一文を読むだけで、涙がこぼれ落ちるような内容でした。

そんな靖国での参拝を終えた後、「はじめて、なつかしいと感じた」と夫が言いました。本殿の中をおごそかに歩くシーンで、そう感じたそうです。





私はそういう感覚はありませんでしたが、以前に同じように感じた場所が1つあり、それはフランスの「ニース」です。空港に降りた瞬間に、はじめて来た感じではなく、そして故郷の長崎にも、どこか似ているような感覚がありました。

きっと多くの人は、なつかしいと感じる記憶を辿って、旅に出たりするのだと思います。


ここから後半の半日に起こったことは、私自身の足が痛くなってきてしまい、"身体のどこかが痛いということは、身近な人に対しても余裕がなくなるなぁ" と感じました。元気なときには、周りの人をいたわったり、優しい振る舞いをすることは当然の在るべく姿。ですが、体調が不調なときには人に優しくするどころが、イライラしてしまい、周りに気を使わせてしまうことがあります。私がヒールを履かない理由もそれかな。痛くなってしまうと、一緒にいる人に気を使わせてしまうし、自分も余裕がなくなりますので。。


余裕がない人、イライラしやすい人、怒りやすい人


もしかしたら口にはしないだけで、身体のどこかに痛みを抱えているのかもしれません。

そう思うと、今よりもう少し、人に優しくなれそうな氣がしました。





「我」をとって、神となる


いよいよ目的の「コスタリカの奇跡」上映会へ。明日書きます。


Blog by Mami Grace Osada

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